父の癌との闘い~病状・症状の経過

日々の出来事や病状、通院の記録を残していました。それらをこちらにまとめ記載しています。

年月 病状・症状 メモ
2002年  初め頃 肋骨(左胸心臓部分)の奥が痛む
血圧でかかっていたT病院で症状を訴えるが、肋間神経痛と診断された
背中が痛む。通風だと診断される。(T病院=KO医師)
心臓の下辺りが急激な痛みに襲われることが多くなる。しかし、T病院のKO医師は「健康そのもの」と父に言った
痛みが治まらないために医師にしっかりと伝えて、きちんと検査しろと言った。すると
「KO医師が健康そのもの、と言った」とある日診察を終えて帰ってきた。そんなはずはない。そう思うが父はこのときに何を考えたのだろう? 
父と私は一緒に仕事をしていたので、母と父より、私と父の方が会話が多かった。お酒を毎晩飲むのだが、酔ってくると口数が多くなる。普段はあまり口数が多い方ではない。
そうやって酔って口数が多くなると、痛みがあることを私に訴える。何度も病院を薦めるがどうしても行きたがらない。この理由は今でも私には判らない。
しかし、ある日こんな会話があった。
父「この痛みはいやな痛みだ。癌だと思う」
私「ならどうして病院に行かないの?」
父「今更行っても手遅れだ。それに仕事がある」
私「仕事なんて休めばいい」
父「ま、いいさ」
「ま、いいさ」はこれからも時々出てくる父の口癖だった。
父の友達を呼び自宅でバーベキューをした。疲れた様子が気になる これは私の娘としての勘だと思う。母は、気にならなかったと言ったし、父もあまり気にしてはいないようだった。
10月 相変わらず、痛みがあるため病院を変えるように薦めるが聞き入れない


甘いものが好きでないのに、好んで食べている。大福もち、落雁など
仕事も忙しいままで、父に仕事を休むようにと言うが聞き入れることはなかった。しかし、時間があると私は父のお酒の席に付き合い、父の機嫌を見て何度も仕事を休むように言った。
私と父は辛いものが好きであった。しかしある日キムチ鍋をした日のこと
「もうキムチ鍋はいらないから、これから作らなくていい」と言う。不思議に思ったが、取り立てて食欲が落ちた訳でもなかったので、さほど気にすることはなかった。私は父がそう言ったときの納得のできない表情の方が気になっていた。
11月 便秘をした。体重が4キロ減少。階段を上ると息切れ
便秘だけではなく、黒い便が出る
この頃は、私はいても立ってもいられない状況だった。便秘に黒い便、体重減少。これらのキーワードは私に嫌なことを連想させる。今までは、健康で、排便も規則正しかった。それに就寝時間もわりと規則正しかった。朝寝坊をしたことも無い人が、ある日朝寝坊をした。かなり嫌なものを感じた。明らかに体調が悪いということを示しているからだろう。
やはり、本人もどこかが悪いに違いないと思っているようで、病院へ行くべきだと思い始めたのはこの頃だと思う。
12月に入って 食欲減少 しかし、仕事が忙しいためか仕事のせいにして病院へ行くことを先延ばしにしてばかりで、私はいらいらしていた。親会社の忘年会がありアルコールを大量に飲んだため、痛みが取れなくなりとうとう病院へ行くことを決心した。
12月6日 親会社の忘年会。朝まで飲んだらしい。しかし、体調は悪化。今まであった断続的な痛みは、継続した痛みへ変わったようだ
食欲もかなり落ちた
忘年会でアルコールを飲んだ事は良くないが、もしこの忘年会が無かったらきっともっと先延ばしにしていただろうと思う。
14日 T病院へ。19日に胃カメラの検査予約を取って帰宅。 痛みが激しくなる様子。胃カメラの検査の日を早めるように言うが、当たり前のように私の言うことは聞かない
19日 予定通り胃カメラの検査をしに行く。紹介状を持って帰ってきた。本人はカメラの写真を見て始めて自分が意が悪いのだということを納得。明日、紹介してもらった総合病院へ行くことに。私が運転して乗せていくことになった
<この日から父には言わず食べたもの、時間の記録を付けはじめた>
19日の検査の結果は、胃潰瘍でかなりひどい、というものだった。胃から出血をしているために貧血で顔色は青白かったし、息切れもこの貧血が原因だった。
父はかなりショックを受けたようだった。しかし、原因が判ったので安心をしたのか、病院から帰ってきたときには笑顔だったのが印象的だった。
20日 総合病院へ。朝から痛みがあるようで診察を待つにはしんどいと思い、持っていた歯の痛み止めを飲ませた。かなり効果があったようだ
私だけ「癌の告知」を受けた
待ち時間に「奥さんと一緒に行って下さいと言われた」とボソッと言う。嫌な予感は確信へとつながっていく。
T病院での医師の所見は以下のとおり
「ひどい胃潰瘍ですね。検査入院をしないといけないが今年中は検査の予約が一杯で来年になります。今日は血液検査とレントゲンを撮って自宅に帰ってください。入院の詳しい説明をその検査の間に私から娘さんにしますので、今から検査に行って来てもらえますか」と言われ父は検査室へ。医師と二人になり
「胃がんです。肝臓への転移もあるために、今年のお正月が最後になるでしょう。最期のお正月は自宅で過ごしてもらうために入院は来年にしました。ご本人に告知するかどうかは来年改めてあなたと相談することにしましょう。」
この日の検査の途中「癌と言われなかったか? 俺は来年の春に釣りに行けたらそれでいい」とつぶやく
21日~23日 痛みが取れず、医大病院へ転院を考える
病院を変えるため、紹介状を再度もらいに行った
食欲は落ち、痛み止めで痛みをコントロールすることが不可能
総合病院で医師は痛み止めを処方し忘れていた。不安がよぎる。父も同じ不安を持っていた。私はあのKO医師に紹介状を再度書いてもらうことにした。しかし、KO医師は私から逃げた。これは予想をしていた。父の病状を見逃したからだ。父は何年も前から血圧が高いためにずっとこのT病院に通っていた。何度も痛みを訴えていた。しかしこの病気を見つけることはできなかったということになる。
何とかKO医師と連絡を取り、紹介状を書いてもらった。悔しかった。休日のため医大病院へ行けるのは早くても24日。父の言葉「頑張って食べないと体力がつかない」。本人は胃潰瘍だと信じていて手術をするのだと勝手に判断をしている。
24日 医大病院へ。診察をしてそのまま入院
25日 この日から検査が始まる。医大病院の主治医SM医師と相談をし、余命の告知はしないことにした。しかし、癌であることは告げる必要があるという条件がついた
26日~28日 検査の毎日。栄養の点滴も始まった
行った検査: 内視鏡・胃X線検査・CT・MRI・血液検査
毎日病院へ行く。検査部屋へ行くことがしんどい様子。そのため私が検査室への行き来を車椅子ですることにした。
痛みはボルタ座薬で随分と治まっている。食欲はあるというより、食べなくては体力が落ちる、と頑張っている。「頑張って食べないと体力が落ちる」と何度父の口から聞いただろう。
一部の検査の結果が主治医の手元に届いたようで、こっそりと私に教えてくれた。十二指腸があと2~3ミリの細さまで閉塞している。これは腫瘍は胃内部だけではなく、十二指腸の一部にもあるという事で、この状態で食事が取れるのは気合だけだろうと言うことだった。状態は深刻であるし思ったより進んでいる。父の顔がまともに見れない。辛い状態だ
父の言葉
「こんなことで疲れるようでは駄目だ。仕事があるのに」
「痛みが無ければ何ともない。食欲だってある。痛いから食べれなかっただけだ」
「今までだって辛いことを乗り越えてきたんだ。これぐらい・・・・」病院内を移動するときは車椅子を使っている。表情などは穏やか。検査が始まって仕事のことは一言も何も言わない。
29日 28日~1月4日まで一時帰宅。
嘔吐した場合はすぐに病院に戻るようにという注意を私だけ受けて、一時帰宅。家にいる間、食欲は全く無いというわけではなく、食べれるものを食べている。消化に時間のかかりそうな物はあまり食べたがらない
30日~31日 吐き気

めまい・胸やけ(吐き気に近い)。私は生きた心地がしない
吐き気や、めまいなどがあるが、外出などはしていた。しかし、体力が落ちているのですぐに疲れる様子。
食事は、消化の良いものを少量ずつ
時間のあるときは横になることが多い
病院へ戻るまでの間、容態は安定しているようだった

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